喜びの島

◼︎国語の先生やってる同級生「学校の経費10万円分で書籍購入したら、ほぼ春画で生徒に見つかる前に即隠した」なぜ確認しなかったのか、思わず笑ってしまった。

◼︎英語・中国語・タイ語を勉強し始めた。

◼︎視力が格段に下がった。遠くで話す人の顔がのっぺらぼうに見える時がある。今年の春、健康診断を受けたときにその兆候は現れていたから、もうすぐ悪くなるんだろうなぁとは思ってたけど。お医者さんも「パソコンでの仕事のせいもありますが、加齢も原因かと思います」っていってたしね。加齢か〜、普段そんなに意識していなかったけど、改めて言葉にして聞くと、自分の年齢をより強く実感せざるを得なかった。

同級生の子は「もう28歳だよ、いやだなぁ」って歳を重ねることに対してすごく嫌がるし、周りの若い子たち(っていう言い方自体がもうアレなのかもしれないが…)は、「28歳とかもうアラサーですね〜」なんて調子のいいこと言ってきたりして、ああ私ってそういう歳なのかぁって実感。

若いままでいたい時もあるけど、若さは時に愚かだ。色々な物事を小さな世界でわかったような気になるから。歳を重ねることってもう抗えないことだし、仕方がないことなのかな〜とも思うから、私は特別嫌だなとは感じない。

まあでも一つ思うのは、アラサーって言葉をディス用語っぽく使ったり、歳を重ねることに対して拒絶したり、そうやって自分の言葉で自分に呪いをかけない方が圧倒的に生きやすいんじゃないかな。まあ人それぞれの人生だから、いろんな生き方があるし、一概に断言もできないのだけど。

素晴らしかった日々

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仕事を辞めた。私にしては結構思い切りのいいことをした。「課長じゃなくなってもいいの?頑張った結果、手放すの?」「大手じゃん?もったいなくない?」などと皆から止められ、 多少気持ちは揺らいだけど、、今は、長旅から戻り、自宅に着いた時のような、なんだかほっとした気持ちになってる。

 

これまでお世話になった人々に辞めることを伝えると、最近連絡を取っていなかった人から声をかけてもらったり、何度も送別会をひらいてもらった。異動する時にすごく寂しくて泣いたりしたから、今回はもっと寂しくなるかと思ったけど、不思議なもので全然涙は出ず、淡々と日々は過ぎるだけだった。あ、でも、いちばん親しかったと言っても過言ではない同僚からの手紙を読んだときは我慢できずに飲み屋で泣いてしまった。ごめん全然涙は出ずは嘘だ、泣いた一回。

 

これからのことは決めてない。一回休む。どのくらい休むかは決めてない。この休みの間に船に乗ってどこか行きたい。海外旅行に行くのは決まってる。学生時代から行ってみたかったタイに、大好きな台湾。あと、引っ越す。東京に戻る。大好きな中央線沿いに帰る。会いたい人にはすぐ会えるようになる。よーし、休むぞーって言ってるけど、すぐ仕事に戻るかも。だって、1週間休んでみたけど飽きてきちゃったから。あんだけ休みたいと思ってたのに、たくさんの休みがあるとどうしたらいいかわかんなくなるもんなんだな人間は。それって日本人特有の悪い癖だ、姉ちゃんは休んだほうがいい!って弟に叱られたけど、まあ、仕方がない。

 

そのうちまた色んなものを恋しく思い、寂しくなるのかな。おセンチになったら秋のせいだね、寒いしね。まあそんな感じ。気にかけて連絡くれてる皆もありがと。私は元気だから心配しなくても大丈夫だよ。じゃあまた。

 

 

 

月と南極

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私と同じタイミングで課長に昇進した同僚が退職。やりたいことがたくさんあるから辞めるそうで。潔く辞めてく姿を見て、この役職や仕事に縛られなくてもいいんだなといい意味で肩の力が抜け、ポジティブな気持ちになった。

 

話を終える間際に、「つらくなったら逃げてもいいんだよ」「無理しちゃダメだからね」って言葉をもらった。オフィスにいると忘れがちだけど、私たちはいつでも、どこにだって行けるはずなんだ。その気持ちを思い出させてくれてありがとう。

みんないい子

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◾︎用事を済ませ、時間があったので、土砂降りの雨のなか百貨店に立ち寄ると大きな人だかりが。

先週、とある芸能人が撮影のために訪れたことを風の噂で聞いていたものだから、もしかして誰かいる?と思い、その輪に入ってみるとリードに繋がれた犬とおじさんがひとりいた。

「募金をお願いします」と呼びかけられ、箱にふと目をやると大きな文字で【盲導犬】と書かれていることに気づいた。盲導犬の保護団体による資金集めのため、犬も連れて宣伝に来ていた、というわけだった。

しかし、その犬、やけに人懐っこい。人が来るたびにぶんぶん尻尾を振り、手を差し伸べ、暖かな視線を配る人々に抱きつかんばかりに飛びつく。私もその洗礼をもれなく受け、頭を優しく撫でているとおじさんがポツリと「この子、盲導犬にはなれなかったんですよ」と言った。

盲導犬になるのには、数多くの試験があり、そこを確実に全てクリアしないと目の不自由な方のパートナーにはなれないらしい。つまり世間で盲導犬として活躍する犬は、100点満点の超優秀エリート犬なのだ。この犬は人懐っこすぎることが理由で、選考から外れたらしい。

その話を聞いた聴衆たちは、「まあ残念だこと」「盲導犬に“なれなかった”犬なんだねぇ」とあたかも不幸な犬のように話し、憐れんでいる。そんなこともつゆ知らず、犬は関心を向けてもらえていることを喜ぶように嬉しそうに尻尾をふる。

私はその様子を見て、とても悲しい気持ちになった。確かに盲導犬にはなれなかった。ただ、その適性がなかっただけで、犬は何も悪くない。なれなかっただけで、不幸のレッテルを貼るのは違うんじゃないかなぁ。

好きな言葉で「適材適所」という言葉がある。みんな違ってみんないい、視点を変えればみんないい子。そういうスタンスで周りの物事を見ていきたいし、そういう寛容性のある社会にもなるといいなぁと思った出来事だった。